responsibility
responsibility: 責任
気を抜くと、よほど意識をしなければ、 人は責任を取らなくて済む方法を模索する。
なぜなら、本質的に責任というものは責任を取ることができないものであるからである。
行動の根底にはこれがある。
だから、世の中の流行りを肯定することが大義名分になる傾向がある。 世論は持論ではないから、責任を取る必要がないからである。 有識者の意見をさも持論であるように語ることもまた同様である。
このことには繊細にならなければならない。 真摯に向き合わなければならい。
なぜなら、責任問題を深層に抱えながら、世論や他者の意見を扱うというのは、己を蔑ろにする理由になるからである。 それは安直であり罠である。
己を、もっというのなら己のオリジナリティを、そして、 己の魂を「それはそれ」と置いておいて、責任問題を避けるために 他者の意見を持ったアバターで世論に便乗し、 そして、さも己の選択であるかのように、世論に反する者を避難する。
矛盾しているでしょう? そうしたときに「己」というものは必要でない。よって、己の存在意義は存在しない。
意図してそうしているうちはいい。しばらくすると、意図せずとも、そういう「己」ができあがる。
いいかな?
繊細に、真摯に、向き合う必要がある。
世論があって「己」があるのではない。 「己」があって、それが美しいものであれば、 正しければ、理にかなっているのであれば、 それは賛同に値し「世論」になる。
灯台下暗し。 急がば廻れ。 正しいことは頭の中に既にある。