知覚とは何か
私は「情報工学科」という分野で大学に進学した。
私は数学が好きで、数学科に行きたかった。 けれども、高校時代は勉強をせず、テニスに明け暮れていたから、数学科に入るのは難しかった。
絵画の良さとは何なのか? ピカソの絵の良さとは何なのか? それを解明したいと思っていた。 その方法として、絵画を音楽に変換してみたいと思った。
我ながら驚くのだけれども、絵画を音楽に変換するには数学が必要だと思っていた。 今考えれば、これは驚異的に正しいと思う。
しかしながら、前述の通り、私は数学科へは進めない。 だから「情報工学科」を選んだのだ。 コンピュータに演算をさせれば、答えは出るだろうと。
しかしながら、私が大学に入学した1990年代、2000年代前半に置いて、機械学習は限界である、というのが定説であった。 それ以前に、私はUnixだとかプログラミングだとかに興味を持っていて、当初の目的は、まあそれはいいだろう、と、特に考えずにいた。
就職し、2016年を迎えると、巷ではディープラーニングのブームである。 あのころの限界を昨今のコンピュータはあっさり超えてしまった。
ここで、少し話は変わって、2000年代前半、私は「クオリア」という概念に出会った。 なぜだか説明はできないのだけれども、とても魅力的なものだと思った。 なぜだか。
そして今、ディープラーニングが実用的となり、改めて絵画の変換を考えはじめた。 絵画を音楽に変換する。 これはつまり、絵画から得る視覚を、それを、聴覚から得る音に変換することである。
絵を絵たらしめる感覚、メロディを音たらしめる感覚、これは「クオリア」に他ならない。
あの時、どうして私は「クオリア」に興味を持ったのか。 それが私の本当に興味のあることであると知っていたのだろう。
それは言葉では説明できない。 けれども、のんべんたらりんとそこにあるのだろう。
私達の思考は、脳みそは、私達のものではない。 自然の中で生まれたものだ。 だから、論理や言語で表現できない「何か」を常に持っているに違いない。 言い換えれば、論理や言語は後付である。
改めて私は「クオリア」と呼ばれるもの、絵画を見た時の感情、音楽を聞いた時の感情、それらを説明する「何か」を探したいと思う。