知と認知
先日、情報アーキテクチャという講義を行いました。
情報を整理・分類し、情報を理解しやすくするという内容の講義です。
講義をしていて、とても大切だと思える気づきがありました。 それは「整理・分類」は実は生産なんだということです。
私は漠然と、情報を生み出したり、モノを作ることのみが生産だと決めつけていたのだと思います。 しかし、「整理・分類」も立派な生産だったのです。
何を生産するのかというと、それは「見出し」です。 情報を「整理・分類」すると、関係性のある情報がグルーピングされ、 そのグループに「見出し」が付けられます。 見出しは最初からあった情報ではありませんから、生産だという訳です。
では、見出しとは何なのか? 見出しというのは要約(要となる束)のことであり、 要とは「最も大切な部分、必要、まとめ」のことであり、 約とは「ひもで結ぶ、共通のもの、かいつまむ、あらまし」という意味です。
つまり、見出しとは「情報の大切な共通部分」ということです。 (オブジェクト指向分析設計で言うとスーパークラスに当たります。)
さて、Google先生のコンピュータがディープラーニングにより「猫の概念」を学習したそうです。 大量の画像をインプットし、大量の演算をしたら「猫の概念」がアウトプットされたのです。
沢山の画像の中から、最も大切だと思われる共通部分を抜き出したら「猫の概念」だったということでしょう。 これは、見出しを見つけたことに他なりません。
もしかすると「見出し」というのは「知」そのものなのかもしれませんね。 0から1を生み出すAIはいくら頑張っても作れそうもありません。 しかし、情報の大切な共通部分を見つけ出すAIは作れそうです。
このことについてふと思うのです。 「知」そのものを定義することは難しいが、 「認知」は定義できるだろうということです。
「情報の大切な共通部分」は1つとは限りません。 私から見て大切な共通部分が1つの見出しになるに過ぎないのです。 それがまさしく「認知」でしょう。
以前にPointというブログを書いたけれども、 そこにおける「点」と同じように、「知」そのものの定義はできないのでしょう。 しかし、そこに「認識する人」が登場すると、「認知」は定義できるということだと思うのです。
この話、既に釈迦が十二支縁起として語ってんだよなあ。 すげえな。
んで、去年、サールナートに行ってんだよな。 サールナートって十二支縁起を初めて語った地なんだよな。 この記事の内容について考え始める以前なんだよなあ。 情報について考えていたら、去年行ったサールナートに辿りついた。 たまたまか、縁起か。