何を知ることができるか
「自分が知る」というプロセスを考えると、 学問や手法や定説などの「一般的な定義」を知って、 それを自分で体感したり体得したときに「自分が知る」ということになる。
そういうと当然だよな。
テニスで速いサーブを打つためには、 良いサーブのフォームという「一般的な定義」を知って、 それを自分が実現できるように練習して、 最終的に速いサーブが打てるようになる。 時には自分の身体に即した独自のフォームを定義したりもするだろう。
「一般的な定義」を知った段階で「自分が知る」とすることもできるが、 それだと、当初の知りたかった目的は達成されていないだろう。きっと。
この「自分が知る」のプロセスから外れるものはきっと何もない。
「悟りを自分が知る」 について考えると、「悟りの一般的な定義」を調べるのは容易い。 ググればいっぱいある。 きっと本当のことを定義していることも沢山あるだろう。 だが、目的はまだ達成されていない。 悟りも例にもれず、体得するものだろうから。
そして、「悟りの体得」について調べると、全くもって情報がない。 なぜなのか。 これを一番上手に説明するなら「悟りの体得は言語では定義できない」ということだろう。 きっとね。 あ、「速いサーブの体得」も言語では定義できないな。 体得は言語では定義できないのさ。 だってそうでしょう?
悟りの神格化や神秘化ではなくて、言語では定義できないことを感じたことがあるでしょう? 言葉で定義した途端に嘘になると感じたことがあるでしょう? そこにしばらくの間、悟りがあったのさ。
繰り返す、 悟りの神格化や神秘化ではない。 速いサーブを打つことと悟りに本質的な違いはない。
速いサーブを打ちたいか、悟りたいか。 それだけのこと。
それだけであり、それがすべてです。