情熱とは

甘えとは、頑張ったらもらえると思っていた褒美が貰えないことへの不満。 視野とは、見えないものを見ようとする力。 努力とは、努力を継続する力。 才能とは、諦めない力。 天才とは、好きなことを諦めない力。 成功とは、失敗を経て得るもの。 情熱とは、それは、冷静の反対側にあるものではない。 ポーズでは決してなり得ない。 情熱とは、それを成し遂げる力に他ならないのである。

シン・ゴジラ

シン・ゴジラが映画として本当に面白いのかどうかはさておき、 サブカルからカルチャーになった庵野秀明がとどめとして、 我らがゴジラを使ってカルチャーそのものになった、 という時代の変換点的なところが魅力なんだろうと思う。 ラジオのすげえ面白いパーソナリティがテレビに出てきたときの感じ。 ハガキ職人だったWコロンがテレビに出てきたときの感じ。 3.11 で受けた各々の思いも、投入しやすかったね。 それとハリウッド版に対する不満の裏返しもあった。 よくぞやってくれました、まってました感。 なんでしょうね。 世紀末のエヴァンゲリオン、 3.11 以降のシン・ゴジラ。 やり方、じょーず。 最初 thin-godzilla だと思ってたよ。

呪いの言葉と正義の言葉

ある日、預言者がいた。 預言者は言う「明日、隕石が落下し人類の9割が死ぬ。」 明日どうなるか、パターンを見てみよう。 パターン1:隕石が落下し人類の9割が死ぬ。 パターン2:予言が外れ何も起こらない。 パターン3:正義のヒーローが事前に隕石を食い止め、何も起こらない。 パターン1の場合、生き残った1割の人類から預言者は神として崇められる。 パターン2,3の場合、預言者はほら吹きとなる。 パターン2の場合、預言者はほら吹きである。 でも、パターン3の場合、預言者はほら吹きとまでは言えない。なぜなら、隕石が迫っていることは言い当てているから。 しかしながら、ほら吹き扱いになる。 よって、預言者にとって正義のヒーローは元凶になりうる。 ましてや、預言者=正義のヒーローだったらどうだろう。 隕石を食い止めたらほら吹き扱い。 隕石を黙認したら神扱い。 おわかりであろうか? 「明日、隕石が落下し人類の9割が死ぬ。」 これはいかなる局免に置いても呪いの言葉である。 なぜなら予言の能力など人には無いからである。 呪いの言葉は正義を止めることができる。 それだけである。 では、正義の言葉とは何か。 「明日、隕石が落下する。それを私は、我々はどうにか阻止できる。」

笑う

笑う。 人が笑ったときの表情は、怒った表情の打ち消しなのだそうだ。 生物というのは生きなければならない。 そのためには、戦ったり、戦いを避けるために「怒り」を表現し、戦いを牽制せねばならない。 その次に生まれた表情が「笑い」なのだ。 笑いというのは、怒ってないよ、なのだ。 一つレベルが、次元が、民度が、知性が、適応度が、違うのである。 人は進化の過程で戦わない方法を学んだ。 怒りの一つ上に笑いがあるのである。 果ては笑うしかない。 笑う門に福きたる。 脳みそなんていい加減なものだ。 生きるための条件反射しかしない。 考えすぎるな。 いや、考えすぎてもいい、でも、笑え。 最後は、結論として、笑え。 人は笑う。 人は幸福だから笑うのではない。 人は笑うから幸福なのである。 人は笑ったから人になれたのである。

1ドルはどこへ消えた

3人の宿泊客が10ドルずつ計30ドルを支払った。 後になって宿主は部屋代が25ドルだったことに気が付いた。 宿主は遣いに5ドルを返してくるように命じた。 遣いは5ドルから2ドルをちょろまかし、3人の客に1ドルずつ返した。 3人の客は9ドルずつ計27ドルを支払ったことになる。 遣いは2ドル持っているため、合計29ドルとなる。 最初、30ドル支払ったはずだが、残りの1ドルはどこへ消えた?

future to past

時間を中心に考えると時間は過去→現在→未来に流れている。 観察や物理的に物事をとらえるとそうなる。 しかし、自分を中心に考えると時間は未来→現在→過去に流れている。 まだ見ぬ未来がこれから現在になり、そして過去になるのだ。 この視点ってすごいよな。 過去も現在からも離れて、未来に希望を持って良いということだから。 そう思うなあ。 自分がそこに居れば、自分を取り戻せば、自分で決めれば、未来に希望を持って良いのだ。

1729

以前のブログ次元に関連して、 ハーディ=ラマヌジャン数 1729 について見てみよう。 1^3 + 12^3 = 1729 9^3 + 10^3 = 1729 つまり、 1^3 + 12^3 = 9^3 + 10^3 フェルマーの定理で以下は成立しない。 a^n + b^n = c^n (n >= 3) けれども、以下は成立する。 1^3 + 12^3 = 9^3 + 10^3 一般化すると、 a^3 + b^3 = c^3 + d^3 は存在する。 a^2 + b^2 = c^2 も存在する。 2つの立方数の和は、他の2つの立方数の和と等しくなる場合がる。 2つの平方数の和は、1つの平方数と等しくなる場合がある。 んで。 a^1 + b^1 = c^1 も当然存在する。 a^1 = b^1 (a != b) は当然存在しない

知と認知

先日、情報アーキテクチャという講義を行いました。 情報を整理・分類し、情報を理解しやすくするという内容の講義です。 講義をしていて、とても大切だと思える気づきがありました。 それは「整理・分類」は実は生産なんだということです。 私は漠然と、情報を生み出したり、モノを作ることのみが生産だと決めつけていたのだと思います。 しかし、「整理・分類」も立派な生産だったのです。 何を生産するのかというと、それは「見出し」です。 情報を「整理・分類」すると、関係性のある情報がグルーピングされ、 そのグループに「見出し」が付けられます。 見出しは最初からあった情報ではありませんから、生産だという訳です。 では、見出しとは何なのか? 見出しというのは要約(要となる束)のことであり、 要とは「最も大切な部分、必要、まとめ」のことであり、 約とは「ひもで結ぶ、共通のもの、かいつまむ、あらまし」という意味です。 つまり、見出しとは「情報の大切な共通部分」ということです。 (オブジェクト指向分析設計で言うとスーパークラスに当たります。) さて、Google先生のコンピュータがディープラーニングにより「猫の概念」を学習したそうです。 大量の画像をインプットし、大量の演算をしたら「猫の概念」がアウトプットされたのです。 沢山の画像の中から、最も大切だと思われる共通部分を抜き出したら「猫の概念」だったということでしょう。 これは、見出しを見つけたことに他なりません。 もしかすると「見出し」というのは「知」そのものなのかもしれませんね。 0から1を生み出すAIはいくら頑張っても作れそうもありません。 しかし、情報の大切な共通部分を見つけ出すAIは作れそうです。 このことについてふと思うのです。 「知」そのものを定義することは難しいが、 「認知」は定義できるだろうということです。 「情報の大切な共通部分」は1つとは限りません。 私から見て大切な共通部分が1つの見出しになるに過ぎないのです。 それがまさしく「認知」でしょう。 以前にPointというブログを書いたけれども、 そこにおける「点」と同じように、「知」そのものの定義はできないのでしょう。 しかし、そこに「認識する人」が登場すると、「認知」は定義できるということだと思うのです。 この話、既に釈迦が十二支縁起として語ってんだよなあ。 すげえな。 んで、去年、サールナートに行ってんだよな。 サールナートって十二支縁起を初めて語った地なんだよな。 この記事の内容について考え始める以前なんだよなあ。 情報について考えていたら、去年行ったサールナートに辿りついた。 たまたまか、縁起か。

次元

超ひも理論やM理論では10次元だとか11次元だとかが予見されているらしい。 3次元とか4次元は理解がしやすい。 きっと脳の構造がそうなっているんだろう。 実際に生きている物理世界にもマッピングしやすいよね。 でも、10次元となると全くもって想像できない。 マクロとミクロの性質は異なる、ってやつだね。 ここでピタゴラスの定理を考えてみると、 3^2 + 4^2 = 5^2 これは見ての通り成立する。 当然、 6^2 + 8^2 = 10^2 これも成り立つ。 一般化すると、 a^2 + b^2 = c^2 これを成立させる自然数は無数に存在する。 ピタゴラスの定理は図形で説明するのも簡単で、 辺が3,4,5の三角形を描いて、各辺の外側に正方形を描けば良い。 Wikipediaの ピタゴラスの定理 に分かりやすい図が張られている。 じゃあ、以下の条件が満たせるだろうか? a^n + b^n = c^n (n >= 3) これがかの フェルマーの最終定理 だけれども、上記の式を満たす自然数は存在しないことが証明されている。 満たせないということは、ピタゴラスの定理の時のように図に描けないということ。 図に描けないということは、物理世界に存在し得ないということ。 ピタゴラスの定理は三角形を三角形たらしめる定理であって、 三角形をベースに3次元までは描ける。時間軸も加えれば、ピタゴラスの定理は4次元の世界でも成立する。 しかし、フェルマーの最終定理を見ると、5次元以上の世界ではピタゴラスの定理のようなものは成立しない。と言えそうだ。 上記のことをまとめると、10次元という世界があるとすると、それは自然数などの物理世界では成立しないだろうということ。 10次元から見ると、私たちの生きている(と思っている)物理世界はミクロであって、10次元のマクロとは性質が異なるのかもしれない。 きっと、点や線や面や体とは違った何かがあるんだろうね。 物理世界を越えた世界ってどういう世界なんだろう。 きっと、それは情報しかないんじゃない? 私の知る概念で物理を越えられるのは情報しかないから。 試しに越えてみよう。 「猫は空が飛べる!」 以上です。

何を知ることができるか

「自分が知る」というプロセスを考えると、 学問や手法や定説などの「一般的な定義」を知って、 それを自分で体感したり体得したときに「自分が知る」ということになる。 そういうと当然だよな。 テニスで速いサーブを打つためには、 良いサーブのフォームという「一般的な定義」を知って、 それを自分が実現できるように練習して、 最終的に速いサーブが打てるようになる。 時には自分の身体に即した独自のフォームを定義したりもするだろう。 「一般的な定義」を知った段階で「自分が知る」とすることもできるが、 それだと、当初の知りたかった目的は達成されていないだろう。きっと。 この「自分が知る」のプロセスから外れるものはきっと何もない。 「悟りを自分が知る」 について考えると、「悟りの一般的な定義」を調べるのは容易い。 ググればいっぱいある。 きっと本当のことを定義していることも沢山あるだろう。 だが、目的はまだ達成されていない。 悟りも例にもれず、体得するものだろうから。 そして、「悟りの体得」について調べると、全くもって情報がない。 なぜなのか。 これを一番上手に説明するなら「悟りの体得は言語では定義できない」ということだろう。 きっとね。 あ、「速いサーブの体得」も言語では定義できないな。 体得は言語では定義できないのさ。 だってそうでしょう? 悟りの神格化や神秘化ではなくて、言語では定義できないことを感じたことがあるでしょう? 言葉で定義した途端に嘘になると感じたことがあるでしょう? そこにしばらくの間、悟りがあったのさ。 繰り返す、 悟りの神格化や神秘化ではない。 速いサーブを打つことと悟りに本質的な違いはない。 速いサーブを打ちたいか、悟りたいか。 それだけのこと。 それだけであり、それがすべてです。