Philosophy

笑う

笑う。 人が笑ったときの表情は、怒った表情の打ち消しなのだそうだ。 生物というのは生きなければならない。 そのためには、戦ったり、戦いを避けるために「怒り」を表現し、戦いを牽制せねばならない。 その次に生まれた表情が「笑い」なのだ。 笑いというのは、怒ってないよ、なのだ。 一つレベルが、次元が、民度が、知性が、適応度が、違うのである。 人は進化の過程で戦わない方法を学んだ。 怒りの一つ上に笑いがあるのである。 果ては笑うしかない。 笑う門に福きたる。 脳みそなんていい加減なものだ。 生きるための条件反射しかしない。 考えすぎるな。 いや、考えすぎてもいい、でも、笑え。 最後は、結論として、笑え。 人は笑う。 人は幸福だから笑うのではない。 人は笑うから幸福なのである。 人は笑ったから人になれたのである。

future to past

時間を中心に考えると時間は過去→現在→未来に流れている。 観察や物理的に物事をとらえるとそうなる。 しかし、自分を中心に考えると時間は未来→現在→過去に流れている。 まだ見ぬ未来がこれから現在になり、そして過去になるのだ。 この視点ってすごいよな。 過去も現在からも離れて、未来に希望を持って良いということだから。 そう思うなあ。 自分がそこに居れば、自分を取り戻せば、自分で決めれば、未来に希望を持って良いのだ。

知と認知

先日、情報アーキテクチャという講義を行いました。 情報を整理・分類し、情報を理解しやすくするという内容の講義です。 講義をしていて、とても大切だと思える気づきがありました。 それは「整理・分類」は実は生産なんだということです。 私は漠然と、情報を生み出したり、モノを作ることのみが生産だと決めつけていたのだと思います。 しかし、「整理・分類」も立派な生産だったのです。 何を生産するのかというと、それは「見出し」です。 情報を「整理・分類」すると、関係性のある情報がグルーピングされ、 そのグループに「見出し」が付けられます。 見出しは最初からあった情報ではありませんから、生産だという訳です。 では、見出しとは何なのか? 見出しというのは要約(要となる束)のことであり、 要とは「最も大切な部分、必要、まとめ」のことであり、 約とは「ひもで結ぶ、共通のもの、かいつまむ、あらまし」という意味です。 つまり、見出しとは「情報の大切な共通部分」ということです。 (オブジェクト指向分析設計で言うとスーパークラスに当たります。) さて、Google先生のコンピュータがディープラーニングにより「猫の概念」を学習したそうです。 大量の画像をインプットし、大量の演算をしたら「猫の概念」がアウトプットされたのです。 沢山の画像の中から、最も大切だと思われる共通部分を抜き出したら「猫の概念」だったということでしょう。 これは、見出しを見つけたことに他なりません。 もしかすると「見出し」というのは「知」そのものなのかもしれませんね。 0から1を生み出すAIはいくら頑張っても作れそうもありません。 しかし、情報の大切な共通部分を見つけ出すAIは作れそうです。 このことについてふと思うのです。 「知」そのものを定義することは難しいが、 「認知」は定義できるだろうということです。 「情報の大切な共通部分」は1つとは限りません。 私から見て大切な共通部分が1つの見出しになるに過ぎないのです。 それがまさしく「認知」でしょう。 以前にPointというブログを書いたけれども、 そこにおける「点」と同じように、「知」そのものの定義はできないのでしょう。 しかし、そこに「認識する人」が登場すると、「認知」は定義できるということだと思うのです。 この話、既に釈迦が十二支縁起として語ってんだよなあ。 すげえな。 んで、去年、サールナートに行ってんだよな。 サールナートって十二支縁起を初めて語った地なんだよな。 この記事の内容について考え始める以前なんだよなあ。 情報について考えていたら、去年行ったサールナートに辿りついた。 たまたまか、縁起か。

何を知ることができるか

「自分が知る」というプロセスを考えると、 学問や手法や定説などの「一般的な定義」を知って、 それを自分で体感したり体得したときに「自分が知る」ということになる。 そういうと当然だよな。 テニスで速いサーブを打つためには、 良いサーブのフォームという「一般的な定義」を知って、 それを自分が実現できるように練習して、 最終的に速いサーブが打てるようになる。 時には自分の身体に即した独自のフォームを定義したりもするだろう。 「一般的な定義」を知った段階で「自分が知る」とすることもできるが、 それだと、当初の知りたかった目的は達成されていないだろう。きっと。 この「自分が知る」のプロセスから外れるものはきっと何もない。 「悟りを自分が知る」 について考えると、「悟りの一般的な定義」を調べるのは容易い。 ググればいっぱいある。 きっと本当のことを定義していることも沢山あるだろう。 だが、目的はまだ達成されていない。 悟りも例にもれず、体得するものだろうから。 そして、「悟りの体得」について調べると、全くもって情報がない。 なぜなのか。 これを一番上手に説明するなら「悟りの体得は言語では定義できない」ということだろう。 きっとね。 あ、「速いサーブの体得」も言語では定義できないな。 体得は言語では定義できないのさ。 だってそうでしょう? 悟りの神格化や神秘化ではなくて、言語では定義できないことを感じたことがあるでしょう? 言葉で定義した途端に嘘になると感じたことがあるでしょう? そこにしばらくの間、悟りがあったのさ。 繰り返す、 悟りの神格化や神秘化ではない。 速いサーブを打つことと悟りに本質的な違いはない。 速いサーブを打ちたいか、悟りたいか。 それだけのこと。 それだけであり、それがすべてです。

point

Wikipediaで「点」の定義を見ると、 点は一切の体積、面積、長さをもたない。 なのだそうです。 エッ! 点は触ることも食べることもできない。 んな馬鹿なという反論をする人向けに、点を無定義術語として扱ったりするそうです。 言い換えるとXですな。 もっと言い換えると呪文ですな。 線や面や体の一番小さな単位は呪文でできている。 ただし、移動のようなエネルギーの最小単位はプランク定数で定義できた模様です。 どうも動いているものの定義よりも、止まっているものの定義が難しい。 そもそも止まっているものってないんじゃないかな? きっと世界には動的なものしか存在しない。 止まったことがないのだ。 そんな気がしてきた。 そう考えると、 不確実性とか情報とか量子力学とか動的平衡とか空だとかが同時に納得できる。 点はないけど交わるのである。