The Blue Hearts を初めて知ったのは小学校4年か5年生だったかな。
今となって言葉にするなら、
「こんな世界があるんだ!」
って感じだったなあ。
5年生の頃にいつも一緒だった4人組の仲間がいて、その中の1人が転校することになって、 その送別会で「青空」を残りの3人で歌ったんだけど、なんだかものすごくこっ恥ずかしかった。 それと、本当は「青空」じゃなくて「リンダリンダ」だとか、もっとブルーハーツのなんていうか 本気というか恥ずかしさを全部込めたような歌を歌いたかったけど、それが言えなかったというのもあった。
その後、中学生になると B’z の人気がかなり高まってきて、 そんなときに「好きなバンドは何?」って聞かれた時に「ブルーハーツが好き」というのが なんとも恥ずかしい時期があった。
なんだろう、ブルーハーツが好きだなんて、俺の一番の秘め事のような、 太宰治の言う自我の恥ずかしさのような、そんなことまで教えられないと言うような。
今となって言葉にするなら、
「ブルーハーツが好きなんて、そんな自分をあらわにすることなんて言えない」
という感じ。
あれから20年経って、今でもブルーハーツの曲には心が震える。どうしようもない。大好き。ごめんなさい。
今となって言葉にしてみると、
「優しい」
につきる。
明石家さんまや松本人志のお笑いに感じたこと、 立川談志の落語を聞いて感じたこと。
どうしてなんだろうと突き詰めると、やっぱり、
「優しい」
んだよなあ。これにつきる。
「優れている」という言葉にも「優」の漢字が当てられているじゃない。 それって、そういうことなんじゃないかなあ。常々そう思う。
例えば継続的に企業運営を続けるために、なぜ「多様性」が必要なのか。
「多様性」=「違いを許容する」
だと多分分かりづらい。
あえてドライに人の存在を加味せず、
「多様性」=「ポートフォリオ」
と考えた方が良いのではなかろうか。
投資に置いて「ポートフォリオ」で「リスク分散」することは基本。 ポートフォリオにより継続的な投資ができる。 なぜなら、リスク分散することで、大勝ちは望めなくとも大負けも起きにくい。
これは納得がしやすいと思う。
上記の「投資」を企業経営に置き換えてみる。
ポートフォリオにより継続的な企業運営ができる。
「多様性」=「ポートフォリオ」
であるから、
多様性により継続的な企業運営ができる。
つまり、ここで述べているのは「多様性=ポートフォリオ」および「企業運営と投資は似ている、または、構造が同じ」ということ。
数学の世界にはラングランズ・プログラム というものがあって、一見異なるように見える数学分野・理論に関係性を見出そうという試みがあるけれども、 これとまったく同じ構造で、経済学や社会学をはじめとする世の中の活動一般には何かしらの関係性があるのだろう。 その関係性の根本に世界を形作る元素のような最小の単位があるのだろうと思う。
トポロジーの問題だと思われていたポアンカレ予想が微分幾何学で解けたという話、 ポアンカレ予想を解いたグリゴリー・ペレルマンには違った世界が見えているに違いない。
世界はどんな形をしているのだろう?
responsibility: 責任
気を抜くと、よほど意識をしなければ、 人は責任を取らなくて済む方法を模索する。
なぜなら、本質的に責任というものは責任を取ることができないものであるからである。
行動の根底にはこれがある。
だから、世の中の流行りを肯定することが大義名分になる傾向がある。 世論は持論ではないから、責任を取る必要がないからである。 有識者の意見をさも持論であるように語ることもまた同様である。
このことには繊細にならなければならない。 真摯に向き合わなければならい。
なぜなら、責任問題を深層に抱えながら、世論や他者の意見を扱うというのは、己を蔑ろにする理由になるからである。 それは安直であり罠である。
己を、もっというのなら己のオリジナリティを、そして、 己の魂を「それはそれ」と置いておいて、責任問題を避けるために 他者の意見を持ったアバターで世論に便乗し、 そして、さも己の選択であるかのように、世論に反する者を避難する。
矛盾しているでしょう? そうしたときに「己」というものは必要でない。よって、己の存在意義は存在しない。
意図してそうしているうちはいい。しばらくすると、意図せずとも、そういう「己」ができあがる。
いいかな?
繊細に、真摯に、向き合う必要がある。
世論があって「己」があるのではない。 「己」があって、それが美しいものであれば、 正しければ、理にかなっているのであれば、 それは賛同に値し「世論」になる。
灯台下暗し。 急がば廻れ。 正しいことは頭の中に既にある。
私は何者になりたいのか。 私は何者なのか。
小さな子供、小さな命。 そんなのを目の当たりにすると抵抗できんのだ。
そんなとき、 自分は、自分が、何者になりたいのか、 そう思う自分がいなくなる。
この命があればいい。 この命のためにありたい。
自己犠牲じゃないと思うな。 自己満足だと思うな。
未来を託すことは、自己満足なんだと思うな。
未来に、満足を置きたい。 これで満足。 そう言いたい。
自らが決めた悪の基準を世の中に適用し、その結果、悪に該当した奴を消えろと願う。 これをガキという。
言い換えよう。
食べたいと思ったお菓子を買ってもらえず、なぜ買ってくれないのか泣きわめく。 これをガキという。
ガキとはつまり未成熟なのである。 人は成熟しなければならない。
世の中を断定することはできない。 世の中は正しいことや、自分に都合の良いものばかりで構成されているわけではない。 それをさも知っているようで、知っていない。 これもやはりガキであり未成熟である。
自ら創造した悪が消えるよう願うこと。 思い通りにならず泣きわめくこと。 これらは自らの基準と目の前にある基準とのギャップを埋めようとする行為である。 ギャップは事実であり、泣きわめく理由にはならない。 リンゴを見て、赤い赤いと泣きわめく理由はないのである。 それが分からないのは、はっきり言おう、馬鹿である。
それをさも知っているようで、知っていない。 馬鹿である。
成熟とはなにか。これまでに述べた未成熟を裏返せば分かる。 成熟とは事実と真正面から向き合うことである。
やはり、現実は正解なのである。
Wikipedia「モンティ・ホール問題」
モンティ・ホール問題の勝率を計算してみました。
プログラム
●実行結果
$ perl MontyHallProblem.pl win_count_not_reselect: win=334035, lose=665965, winning_percentage=33.4035% win_count_reselect: win=665966, lose=334034, winning_percentage=66.5966% 100万回実行し「選択し直す」方が勝率が2倍も高くなることが確認できました。
直感的には信じがたい。 どれも勝率1/3なんじゃないか? けれど、プログラムで書いてみるとなんとなく分かりました。 34行目で見えた真実!
これってすごいですよね。 感覚的には理解できないことが、論理的にプログラムを書いていく内に理解できるようになる。
すごいっすね。 すごい、すごいすごい。
「現状の職業の一部はAIにとって代わるから、人間は0から1を生み出す職業を選択すべき」
的な話を今日聞いたんだけどね。
人間は0から1を生み出すという表現は間違ってると思うな。 人間は一度も0から1を生み出したことはない。 1と1を組み合わせた1を「これは2である」と定義したにすぎない。
全ては定義。
定義とは情報であり、人に価値があると定義される情報を定義し続けることで文明を創った(定義した)。
まあ「0から1を生み出す」をどう定義するかで解釈は変わる訳だけど。
ここで結論として言いたいのは、AIにできなくて、人間にしかできないことなんて、何一つもないということ。
善悪やあるべき論のことは言わない。 AIと人間に本質的な違いはない。 なぜなら、AIは定義をすることができる。 現状、AIが非力なだけだ。
AIと人間に違いがないなら、人間の魂は何なのかというと、それは「定義」したものです。 もっと言うなら「尊いものである」と定義したものです。 ダッツオール!
AIに魂はあるのか? どう定義しましょうか?
私は「情報工学科」という分野で大学に進学した。
私は数学が好きで、数学科に行きたかった。 けれども、高校時代は勉強をせず、テニスに明け暮れていたから、数学科に入るのは難しかった。
絵画の良さとは何なのか? ピカソの絵の良さとは何なのか? それを解明したいと思っていた。 その方法として、絵画を音楽に変換してみたいと思った。
我ながら驚くのだけれども、絵画を音楽に変換するには数学が必要だと思っていた。 今考えれば、これは驚異的に正しいと思う。
しかしながら、前述の通り、私は数学科へは進めない。 だから「情報工学科」を選んだのだ。 コンピュータに演算をさせれば、答えは出るだろうと。
しかしながら、私が大学に入学した1990年代、2000年代前半に置いて、機械学習は限界である、というのが定説であった。 それ以前に、私はUnixだとかプログラミングだとかに興味を持っていて、当初の目的は、まあそれはいいだろう、と、特に考えずにいた。
就職し、2016年を迎えると、巷ではディープラーニングのブームである。 あのころの限界を昨今のコンピュータはあっさり超えてしまった。
ここで、少し話は変わって、2000年代前半、私は「クオリア」という概念に出会った。 なぜだか説明はできないのだけれども、とても魅力的なものだと思った。 なぜだか。
そして今、ディープラーニングが実用的となり、改めて絵画の変換を考えはじめた。 絵画を音楽に変換する。 これはつまり、絵画から得る視覚を、それを、聴覚から得る音に変換することである。
絵を絵たらしめる感覚、メロディを音たらしめる感覚、これは「クオリア」に他ならない。
あの時、どうして私は「クオリア」に興味を持ったのか。 それが私の本当に興味のあることであると知っていたのだろう。
それは言葉では説明できない。 けれども、のんべんたらりんとそこにあるのだろう。
私達の思考は、脳みそは、私達のものではない。 自然の中で生まれたものだ。 だから、論理や言語で表現できない「何か」を常に持っているに違いない。 言い換えれば、論理や言語は後付である。
改めて私は「クオリア」と呼ばれるもの、絵画を見た時の感情、音楽を聞いた時の感情、それらを説明する「何か」を探したいと思う。
甘えとは、頑張ったらもらえると思っていた褒美が貰えないことへの不満。
視野とは、見えないものを見ようとする力。
努力とは、努力を継続する力。
才能とは、諦めない力。
天才とは、好きなことを諦めない力。
成功とは、失敗を経て得るもの。
情熱とは、それは、冷静の反対側にあるものではない。
ポーズでは決してなり得ない。
情熱とは、それを成し遂げる力に他ならないのである。
ある日、預言者がいた。
預言者は言う「明日、隕石が落下し人類の9割が死ぬ。」
明日どうなるか、パターンを見てみよう。
パターン1:隕石が落下し人類の9割が死ぬ。 パターン2:予言が外れ何も起こらない。 パターン3:正義のヒーローが事前に隕石を食い止め、何も起こらない。 パターン1の場合、生き残った1割の人類から預言者は神として崇められる。
パターン2,3の場合、預言者はほら吹きとなる。
パターン2の場合、預言者はほら吹きである。 でも、パターン3の場合、預言者はほら吹きとまでは言えない。なぜなら、隕石が迫っていることは言い当てているから。 しかしながら、ほら吹き扱いになる。 よって、預言者にとって正義のヒーローは元凶になりうる。 ましてや、預言者=正義のヒーローだったらどうだろう。
隕石を食い止めたらほら吹き扱い。 隕石を黙認したら神扱い。
おわかりであろうか? 「明日、隕石が落下し人類の9割が死ぬ。」 これはいかなる局免に置いても呪いの言葉である。 なぜなら予言の能力など人には無いからである。
呪いの言葉は正義を止めることができる。 それだけである。
では、正義の言葉とは何か。
「明日、隕石が落下する。それを私は、我々はどうにか阻止できる。」