DOT's Blog

No pains, No gains

Ubuntu on Windows Subsystem for Linux(WSL)

Windows Subsystem for Linux(WSL) を使うと Windows10 上で Ubuntu を動かすことができる。

これはいい。

Windows を使わざるを得ないときは Git for Windows に付属している Git Bash を主に使っていたのだけれども、 これの出来が悪くて、とにかく遅い。コマンドを打つたんびに2,3秒待たされるような感覚。

一方 WSL だと全然待たされない。素の Ubuntu 環境とほとんど同じ使用感。しかも、apt でパッケージもじゃんじゃんばりばり入れることができる。docker for windows で Ubuntu を動かすのと似てるかな。

うーん、これはいい。

仕事場では WSL を有効にした Windows 環境を使っても良いかも。アプリケーションの制約とか、Office関連の編集でどうしても Windows を使わざるを得ないことがあるからね。

というかもう Windows はカーネルを捨てたらいいじゃない。

ね。

小学校の同窓会

2019年10月12日(土)

小学校の同窓会がありました。

企画してくれたみんなありがとう。

小学生の頃「俺はこの瞬間の記憶を絶対にいつまでも色褪せないで覚えている」と思ったな。 やっぱり忘れてた。

思い出した。

すっごく幸せな気分。

同じ場所に生まれて、同じ場所で育って、同じ学校に通って、そして今はそれぞれ違う道を歩んでいて、違うところにいる。 そんな同級生と会えることはすごく幸せなこと。初めて好きになった子も来ていた。今でも好き。いや「好き」という概念はここから始まっているんだ。

何もない空間にポイと投げ出されて、いろんなことを感じて、いろんなことをして、これからどんなことが待ち受けているのかワクワクしながら、たまには自分を研磨したりしながら過ごす日々。

気がつけば私は立派なおっさん。

そう、世の中を知り、世の中に責任があり、世の中でどうあるべきか自分で決めるべき立ち位置、おっさん。

みんななんかいい感じに生きているみたいだな。

ずっと小学校の近くに住んでいて、同級生と合う機会は皆無で、みんなどこかに行ってしまったんだと思っていた。 みんないたんだな。

ああ幸せ。

1ヶ月後、郵便局に行って駐車場に車を止めた。 そしたら、その同窓会に来ていた初めて好きになった子が隣に駐車していた。

そうか、みんな居たんだな。

あなたと会えてよかった。 みんなと出会えてよかった。

すばらしい日々

ServersMan@VSP から GCP に引っ越し

ServersMan@VSP から GCP (Google Cloud Platform) の無料枠に引っ越ししました。

ServersMan@VPS は OpenVZ を使っている関係上、Ubuntu14.04 までしか動作せず、 かつ、docker が使えなかった。それが引っ越しの理由です。

いやしかし GCP すごいですね。 無料ですよ。 無料で Linux のサーバが使えて、グローバルIPが振られる。 そんな環境が無料ですからね。

無料枠だと HDD が 30 GB で、メモリが 600 MB。 十分でしょう。 いろんな作業をするとメモリが一杯になってフリーズしていたけど、デフォルトだと作られていない Swap を作成すればフリーズしない遅いだけのサーバになりました。 That’s a plenty.

rbenv で ruby をビルドするとものすごく時間がかかるので、ローカルPCでビルドした環境を以下の条件で GCP 上に配置したら動きました。

  1. ローカルPCも Linux。
  2. ローカルPCとGCP上のユーザ名を同じにする。
  3. ローカルPCで rbenv install
  4. ローカルPCで tar jcf rbenv.tar.bz2 ~/.rbenv して GCP に転送。
  5. GCPで tar jxf rbenv.tar.bz2

docker が使えるようになったのはすごくありがたくて、nginxとかcgiとかを docker 上に乗っけることができました。 なので、今度どこかに引っ越しするときには、この docker 環境を移行するだけで良いはず。

docker 設定は GitHub 上で管理。my-docker-compose

もう一度。 無料で公開できるサーバが手に入る時代。 ああすごい。 テクノロジー。

That’s a plenty!

The Blue Hearts

The Blue Hearts を初めて知ったのは小学校4年か5年生だったかな。

今となって言葉にするなら、

「こんな世界があるんだ!」

って感じだったなあ。

5年生の頃にいつも一緒だった4人組の仲間がいて、その中の1人が転校することになって、 その送別会で「青空」を残りの3人で歌ったんだけど、なんだかものすごくこっ恥ずかしかった。 それと、本当は「青空」じゃなくて「リンダリンダ」だとか、もっとブルーハーツのなんていうか 本気というか恥ずかしさを全部込めたような歌を歌いたかったけど、それが言えなかったというのもあった。

その後、中学生になると B'z の人気がかなり高まってきて、 そんなときに「好きなバンドは何?」って聞かれた時に「ブルーハーツが好き」というのが なんとも恥ずかしい時期があった。

なんだろう、ブルーハーツが好きだなんて、俺の一番の秘め事のような、 太宰治の言う自我の恥ずかしさのような、そんなことまで教えられないと言うような。

今となって言葉にするなら、

「ブルーハーツが好きなんて、そんな自分をあらわにすることなんて言えない」

という感じ。

あれから20年経って、今でもブルーハーツの曲には心が震える。どうしようもない。大好き。ごめんなさい。

今となって言葉にしてみると、

「優しい」

につきる。

明石家さんまや松本人志のお笑いに感じたこと、 立川談志の落語を聞いて感じたこと。

どうしてなんだろうと突き詰めると、やっぱり、

「優しい」

んだよなあ。これにつきる。

「優れている」という言葉にも「優」の漢字が当てられているじゃない。 それって、そういうことなんじゃないかなあ。常々そう思う。

世界の形

例えば継続的に企業運営を続けるために、なぜ「多様性」が必要なのか。

「多様性」=「違いを許容する」

だと多分分かりづらい。

あえてドライに人の存在を加味せず、

「多様性」=「ポートフォリオ」

と考えた方が良いのではなかろうか。

投資に置いて「ポートフォリオ」で「リスク分散」することは基本。 ポートフォリオにより継続的な投資ができる。 なぜなら、リスク分散することで、大勝ちは望めなくとも大負けも起きにくい。

これは納得がしやすいと思う。

上記の「投資」を企業経営に置き換えてみる。

ポートフォリオにより継続的な企業運営ができる。

「多様性」=「ポートフォリオ」

であるから、

多様性により継続的な企業運営ができる。

つまり、ここで述べているのは「多様性=ポートフォリオ」および「企業運営と投資は似ている、または、構造が同じ」ということ。

数学の世界にはラングランズ・プログラム というものがあって、一見異なるように見える数学分野・理論に関係性を見出そうという試みがあるけれども、 これとまったく同じ構造で、経済学や社会学をはじめとする世の中の活動一般には何かしらの関係性があるのだろう。 その関係性の根本に世界を形作る元素のような最小の単位があるのだろうと思う。

トポロジーの問題だと思われていたポアンカレ予想が微分幾何学で解けたという話、 ポアンカレ予想を解いたグリゴリー・ペレルマンには違った世界が見えているに違いない。

世界はどんな形をしているのだろう?

Program

月曜日

お題「笑い」

ファシリテーター: 水道橋博士

  • 松本人志
  • 太田光

火曜日

お題「バラエティ」

  • ビートたけし
  • タモリ
  • 明石家さんま

水曜日

お題「笑いと哲学」

  • カート・ボネガット
  • 桂枝雀
  • ウディ・アレン

木曜日

お題「大阪」

  • 横山やすし
  • 島田紳助

金曜日

お題「落語」 副題「落語ちゃんちゃかちゃん」

  • 桂文楽
  • 古今亭志ん生
  • 立川談志
  • 古今亭志ん朝

志の輔らくご in 国立劇場おきなわ

行ってきました。

前座

「子ほめ」。

名前は立川なんだっけな?

志の輔師1

「ちりとてちん」。

沖縄に初めて来たのは28年前、永六輔主宰のイベントにゲスト出演したのが始まりとのこと。

当時はためしてガッテンもやっていないし、師を知っている人はほとんどいなかったとのこと。 離島にも行ったらしく、そもそも落語を知らない人々の前でと考えると壮絶だったろうなあ。

今回「ゆし豆腐」を初めて食べたらしく「まさか豆腐でごはんを食べるとは」と仰っていた。 確かにそういわれるとすごい食べ物だ。

噺は細かい仕草がツボでした。臭い豆腐にむせる感じ、あれは狙ってやるというよりも、 もはや「臭い」を本当に感じてるんじゃないかな。

「ちりとてちん」って江戸落語では「酢豆腐」という名前だったと思うけど、 もはや「ちりとてちん」の方が有名ですからね。

中入り

三線

名前が分からない。めくりを置いてよ~。

今回は前日に宮古でも落語会を開いたらしく、その時の三線が素晴らしかったので、 急遽演目に入れたとのこと。

全2曲。

1曲目は曲と語りを交互に繰り返す浪曲というのかどどいつというのかの沖縄バージョン。 ごめんなさい沖縄人なのになんて言うのか分かりません。面白かった!

2曲目は古い組踊から取った曲。踊りはもはや継承者がいなくて失われたとのこと。 こういう話を聞くと危機感を持つね。もうなんでもいいから誰かが継ぐか、360度録画して保存しておいてくれ。 曲はリズムが早くなったり遅くなったり変調する不思議な曲だった。早口言葉のような。 すみません、なんか変だとは思うだけで、よくわかりません。

立川志ぃさー(藤木勇人)

「金明竹」の沖縄バージョン。

いいね! 狙いどころがいいですね!

序盤はあれだけど、中盤からは面白かった! そもそも金明竹の序盤ってあれ要る? 弥太郎と女将さんの関係性を説明するためにあるんだろうけど、 繋がっていないと思うんだよな。 偉そうなこと言ってしまいました。

立川志ぃさーさんは志の輔師の正式な弟子ではないんだろうけど、是非、沖縄の落語を続けていただきたい。 できれば正式に弟子入りして沖縄落語を確立して欲しい。

志の輔師2

「宿屋の富」。

面白かった!

人情噺をやって欲しかった!

終わりに

一度下りた舞台幕を上げて最後の語り。そう家元のように。

「メンソーレ(現・北山亭メンソーレ)も沖縄でいろいろやっているようで、見てやってください」

うわ~ん(TT)

泣く。

廃業した元弟子を思う師、かっけぇ!

前回志の輔らくごに行った時はまだ「立川メンソーレ」だったのになあ。

北山亭メンソーレさん、沖縄落語を確立して頂けることを期待しております! 沖縄に定席を! ちなみに私と同じ大学、同じ学部、同じ学科だったとのこと。 なんだか自分の夢を叶えてくれているようで嬉しいのです!

何はともあれ「志の輔らくご in 国立劇場おきなわ」ガッテンです!

今回は家元の話は1度も出ず、ああ本当に家元はもう居ないんだなあと思いました。

うわ~ん(TT)

でも家元の芸は引き継がれていますよね。

Responsibility

responsibility: 責任

気を抜くと、よほど意識をしなければ、 人は責任を取らなくて済む方法を模索する。

なぜなら、本質的に責任というものは責任を取ることができないものであるからである。

行動の根底にはこれがある。

だから、世の中の流行りを肯定することが大義名分になる傾向がある。 世論は持論ではないから、責任を取る必要がないからである。 有識者の意見をさも持論であるように語ることもまた同様である。

このことには繊細にならなければならない。 真摯に向き合わなければならい。

なぜなら、責任問題を深層に抱えながら、世論や他者の意見を扱うというのは、己を蔑ろにする理由になるからである。 それは安直であり罠である。

己を、もっというのなら己のオリジナリティを、そして、 己の魂を「それはそれ」と置いておいて、責任問題を避けるために 他者の意見を持ったアバターで世論に便乗し、 そして、さも己の選択であるかのように、世論に反する者を避難する。

矛盾しているでしょう? そうしたときに「己」というものは必要でない。よって、己の存在意義は存在しない。

意図してそうしているうちはいい。しばらくすると、意図せずとも、そういう「己」ができあがる。

いいかな?

繊細に、真摯に、向き合う必要がある。

世論があって「己」があるのではない。 「己」があって、それが美しいものであれば、 正しければ、理にかなっているのであれば、 それは賛同に値し「世論」になる。

灯台下暗し。 急がば廻れ。 正しいことは頭の中に既にある。

落語

落語を好きになって

「落語はなんかいいな」

という感想を耳にすると、

「ああ落語知らないんだな、内容を追ってないな」

とか思っていたけど、

「なんかいい」

は真実かもしれないな。

あのリズム、なんかいい。 そうとしか言えない。 内容は知っていても、展開を知っていても、なんかいい。

リズムとメロディ。

「業の肯定」も苦肉のこじつけなのかもしれない。

「なんかいい」

それは論理的に説明できない。 論理的に説明できたとすると、それはなんかよくない。 そういうものだ。 「問い」や「問題」や「課題」や「理不尽」など、 そういったものに向かい続けるのが人間であり社会であり、生きるということ。

全てを解く万能の答えが見つかったなら、その後になにをしたら良いというのか。

だから、何があっても、どんな理不尽に出会っても、思い通りに行かなくても、世の中は

「なんかいい」

のである。

そう、落語は「業の肯定」である。

あれ?

宇多田ヒカル「花束を君に」

宇多田ヒカル「花束を君に」

自殺した母への歌詞。

母への思い、何かしら歪んだ母への思いを歌詞にして曲にする。

母に対する愛が感じられる。

愛と同時に、愛をここまで形にするのかという、、、一種の冷徹さに似た、 なんとういうのだろう、生きるための動作をルーティンにするような、 そういう論理性を感じる。

曲中に入る変音。 心の形を描き出す変音。

人の闇と言うのか、ドロドロとした部分を描き出すことはアーティストの仕事だろう。 アーティストに許される領域と言っても良い。

それを、こんなにも、分かるように、表現している。

表現としては素晴らしい。

でも、当人はそれで満足なのだろうか。いや、幸せなのだろうか。

そう思わせることも含めると、やはり、表現として素晴らしい。

でも、当人はそれで本当に腑に落ちただろうか。

こんな疑問形で終わらせたくないな。

「愛しい人、愛しい人」

こんな問いで終わる物語であってほしくない。 いや、そうあってはならない。

だから、これを愛の物語であると、美しき愛の物語であると、私はそう信じたい。